こんにちは、モカリーナです。
この記事は長崎県対馬市にある金石城を訪問しました。
対馬厳原の中心地をを歩いていると、山を背に城門が見えてきます。
金石城には天守閣は造られておらず、二層櫓を持つ大手櫓門がその代わりとされたといわれています。
金石城は対馬藩主の居城であり、対馬藩の政庁として機能していましたが、1659年に大火事に見舞われ市街ともども消失しました🔥
長期的な復元工事が実施され、少しずつ金石城は当時の姿が再現されつつあります。
発掘調査により石垣などの様々な遺構が検出され、後に櫓台に連なる水路や階段、石塀などが見つかりました。
現在城内は庭園を除いては公園と化し、誰でも気軽に訪れることができます。
(大手櫓門、2019年5月撮影)
目次
金石城
金石城(かねいしじょう)は、長崎県対馬市厳原町にあった城である。市街を挟んで北東隣の桟原城(さじきばらじょう)とあわせて厳原城(いずはらじょう)ともいう。
(Wikipedia より引用)
金石城のあらまし
金石城は、享禄元年(1528年)に 宗将盛 がこの地に築いた金石屋形がはじまりです。
金石城は清水山の東麓に位置する平城で、対馬藩藩主である宗氏の居城でした。
元々あった金石屋形を朝鮮通信使を迎えるために、近世城郭に改築したといわれています。
石垣や堀切が廻らされたが、天守は築かれませんでした。
1669年(寛文9年)に宗義真によって造られた大手口の櫓門を天守の代用としていました。
1659年(万治2年)に起きた大火で市街とともに焼失し、翌年から宗義真によって城下の再建が行われました。1665年(寛文5年)に整備・拡張されて以降は金石城と呼ばれています。
その後、1678年(延宝6年)に市街を挟んで北東隣の位置に新たに桟原城が築かれ、藩庁としての機能は移動しましたが、その後も破却されることなく城は存続しました。
現在、国の史跡に指定されており、城内の一角には桟原城の大手門(通称、高麗門)が移築復元されています。
金石城散策
大手櫓門
復元された大手櫓門は上層の破風が正面を向いていて、天守閣代わりとされているだけあり威風堂々たる姿をしています。
建物や石垣の大半は明治以降に失われましたが、二層櫓を持つ大手櫓門が古写真等を元に復元されました。
朝鮮通信使が来島した際には、幕府上使の宿館として用いられていました。
大手櫓門近くにある看板には、金石城のことがとても詳しく記述されています✨
大手櫓門を潜り抜けるとたくさんのねこちゃんがお出迎えしてくれました。
逃げ腰のねこちゃんもいれば、撫でてと寄ってくるねこちゃんもいました🐈💕
旧金石城庭園
発掘によって明らかになった旧金石城庭園が整備されており、庭石の配置などもほぼ忠実に再現されています。
かつては「心字池」と呼ばれた旧金石庭園は、対馬藩士の中庭茂三が藩主の命で作ったとされる庭園で、2007年に国からの名勝の指定を受けました。
(庭園は有料、300円)
搦手門
19世紀の絵画には「銅門(あかがねもん)」と記されたこの門は、現在は一般的に搦手門(からめてもん)と呼ばれています。
この門は江戸中期に作られたもので、1992年の発掘調査で櫓台の石垣などが検出されました。
現在の姿は当時の姿の約1/3を復元整備したものです。
搦手門から石橋を渡ると、1615年に対馬府中藩第2代藩主の宗義成が、 初代藩主 宗義智 の追善供養のために建立した「万松院」があります。
搦手門の前にあった看板です。
まとめ
対馬藩主 宗氏の居城だった金石城を訪問しました。
金石城の大手櫓門を潜ると庭園があります。
庭園以外は誰でも訪問することができ、城内は公園と化していて、たくさんのねこちゃんに出会えました。
搦手門からは宗氏の菩提寺である「万松院」へと続いています。
サムネイル写真に使った金石城大手櫓門の写真は主人Gさんが同年5月に撮影したものですが、工事の続いている様子が伺えます。
金石城は長期にわたって復元工事に取り組んでいくそうです🏯
皆さまが対馬の金石城に行った時には、また違ったお城が様子が観られるかもしれませんね◝(⑅•ᴗ•⑅)◜..°♡
※2019年10月19日の記録です。
それでは次回また、モッチャリーナ(๑˃̵ᴗ˂̵)!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
モカリーナより♡
こんにちは!いつも訪問ありがとうございます。
こちらのブログも読者登録させてもらいました😊
素敵なブログ名♡すっごくいいです✨
カワルン (id:kawarun)さん、こんばんは。
読者登録ありがとうございます😊💕
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