こんばんは、モカリーナです。
新元号「令和」の決定がなされ慶びに湧く太宰府の地。
「令和」は日本最古の歌集万葉集に収められた歌の条文を引用したものです。
この「令和」の元になった歌の万葉歌碑は今のところありませんが、これを機に検討されるようです。
太宰府市には、古の歌人たちが詠んだ歌を示した万葉歌碑が数多くあります。
太宰府政庁跡周辺には6基、太宰府市全体では40基以上あり、大伴旅人が詠んだ歌は11基あるそうです。
今回は太宰府政庁跡周辺で訪れた、万葉歌碑9つについてご紹介します。
(坂本八幡神社境内 大伴旅人の万葉歌碑)
浪漫あふれる万葉集・9つの万葉歌碑
万葉集を編集したのは大伴旅人の息子・大伴家持といわれています。
「万葉集」は8世紀後半ごろに成立した日本最古の歌集と言われ、約4500首の歌が収められています。
天皇・皇族をはじめ、貴族など上流階級の人々だけでなく、防人や農民まで、幅広い断層の人々が詠んだ歌が収められており、日本の豊かな文化と長い伝統を象徴する歌集です。
(太宰府市 古都太宰府保存協会のビラより)
(巻3・304)柿本人麻呂
朱雀門礎石横に設置された柿本人麻呂の万葉歌碑。
大君の 遠の朝廷と あり通ふ
島門を見れば 神代し 思ほゆ
(万葉集巻第三・三〇四番)
《現代語訳》
大君の 遠く離れた政庁として 通い続ける
海峡を見ると 神代の昔が思われる。
柿本朝臣人麻呂が築紫の国に行く時に、海路において詠んだ歌です。
人麻呂が九州への海路、明石海峡など瀬戸内の海峡を見て、神代の昔から太宰府政庁への従来にこの海峡を渡ってきたのだという感慨を詠んだ歌。
<朱雀門礎石>
「朱雀門」とは大極殿や役所が並ぶ大内裏の南正門の正門。
この礎石の大きさは2.42m × 1.82m 厚さ1.3m 重さ7.5t。円形の柱座の上部経 66cm
この礎石の発見により、
奈良時代から平安時代にかけて太宰府政庁の前には広場があり、その両側には役所が建ち並ぶ官庁街だったと分かってきました。
(巻8・1541)大伴旅人
坂本八幡神社境内にある大伴旅人の万葉歌碑。
わが岡に さ男鹿 来鳴く
初萩の 花嬬問ひに 来鳴くさ男鹿
(万葉集巻八・一五四一)
《大意》
私の住む岡に牡鹿が来て鳴いている。
今年初めての萩の花が咲き、
明日鹿がやってきて妻問いをしていることよ。
太宰府赴任後間もなく妻をなくした太宰帥大伴旅人の暮らしぶりは、心寂しいものでした。
萩の花が咲染める初秋、牡鹿が雌鹿を求めて鳴く甲高い声にも、妻を思う自分の心を重ねずにはおられない気持ちを詠んだ歌です。
<坂本八幡神社>
土地神(産土神)として崇拝されている神社で、応神天皇を御祭神としています。
(巻5・793)大伴旅人
坂本八幡神社の東側すぐにある大伴旅人の万葉歌碑。
世の中は 空しきものと 知る時し
いよよますます 悲しかりけり
(万葉集巻五・七九三)
《大意》
世の中は虚しいものだとつくづく知る時、
いよいよますます哀願の感を新たにする時だ。
太宰府赴任後妻を亡くし、たびたびの不幸が重なり、世の無常を知った苦しみから、旅人の風流は生まれていきました。
(巻6・956)大伴旅人
太宰府展示館の西側の大伴旅人の万葉歌碑。
やすみしし わが大君の 食国は
倭も此処も 同じぞと思ふ
(万葉集巻六・九五六)
《大意》
私がお仕えする大君が、安らかにお納めする国は、
中央も大和もここ太宰府も同じ、異なることはないと思っている。
太宰帥として赴任した旅人に少弐石川足人が問いかけた歌に対して、旅人がこたえた歌です。
ここでは旅人は「遠の朝廷」太宰帥としての気概を詠んだ歌です。
(巻5・815)紀男人
坂本八幡神社の南側すぐにある紀男人の万葉歌碑。
正月立ち 春の来たらば
かくしこそ 梅を招きつつ 楽しき終へめ
(万葉集巻五・八一五)
《大意》
正月がきて春が来たならば、
このように梅を招いて楽しい日を過ごそう。
大伴旅人が主催した「梅花の宴」の開始にあたり、主賓大弐紀卿のあいさつとして、梅を客人と見立てて歓迎したお祝いの歌とされます。
(巻3・328)小野老
太宰府政庁跡内の小野老の万葉歌碑。
あをによし 奈良の都は
咲く花の 薫ふがごとく 今さかりなり
(万葉集巻三・三二八)
《大意》
奈良の都は匂うような花が咲き、今真っ盛りである。
太宰少弐小野老朝臣が太宰府に着任した時に、宴席で披露した歌。
<太宰府政庁跡>
太宰府政庁跡とは平城京、平安京に次ぐ、外国との交渉の窓口となる役所の跡。
7世紀後半、大和朝廷は那の津の官家を太宰府に移し、奈良・平安時代を通して九州を治め、
我が国の西の防衛、外国との交渉の窓口となる役所でした。
万葉集には「遠の朝廷(みかど)」と詠まれ、
その規模をしのばせる立派な礎石が残り、そこを中心に門や回廊、周辺の役所跡等が整備されて、現在は公園となっている。
(巻3・336)沙弥満誓
観世音寺にある沙弥満誓の万葉歌碑。
しらぬい 築紫の綿は 身につけて
いまだは著(き)ねど 暖かに見ゆ
(万葉集巻三・三三六)
《大意》
築紫の綿は、まだ身につけてみたことはないけれど、
見るからに暖かそうであるよ。
沙弥満誓は俗名「笠麻臣麻呂」といい、尾張・美濃を国主として手腕を振るった有望な官吏。
天皇の病気平癒を祈って出家し、造観世音寺別当として赴任しました。
真綿は古代築紫の名産でした。
(巻5・802.803)山上憶良
学校院跡にある山上憶良の万葉歌碑。
(子等を思ふ歌)
瓜食めば 子ども思ほゆ
栗食めば まして偲はゆ
いづくより 来たりしものそ
まなかひに もとなかかりて
安居しなさぬ
(万葉集巻五・八〇二)
《大意》
瓜を食べると子供のことが思われる。
栗を食べるとより一層子供のことが偲ばれる。
子供はどこから来たものであろうか。
眼前にちらついて、安眠されてくれることがない。
(反歌)
銀も 金も玉も 何せむに
勝れる宝 子にしかめやも
(万葉集巻五・八〇三)
《大意》
銀も金も玉も子供の愛情に比べれば、何になろうか。
どんなに秀れた宝物も、子供には及ばない。
山上憶良が筑前国守として国内を巡行し、
728年7月21日に嘉摩郡で選定した歌6首の中の歌の2首です。
子を思う親心を歌った、万葉集の中でも特異な歌だったようです。
<学校院跡>
学校院は古代律令官制機構を支える太宰府の養成機関。
西海道(九州)諸国の子弟を対象としていました。
(巻5・818)山上憶良
太宰府市役所の駐車場前にある山上憶良の万葉歌碑。
春されば まづ咲く宿の 梅の花
独り見つつや はる日暮さむ
(万葉集巻五・八一八)
《大意》
春になると、真っ先に咲くこの家の庭の梅の花を、
ただ1人で見ながら春の長い日を暮らすことであろうか。
730年1月13日に太宰帥大伴旅人邸で開かれた「梅花の宴」で、筑前国主山上憶良は4番目にに歌を詠んでいます。
社会派と評され、人事を詠むことの多い憶良らしい歌です。
万葉歌碑に使われている石は縦型に横型、コロンとした形やスッとした形、黒っぽいのや白っぽい色と様々あって面白いです。
小野老の万葉歌碑は石に石版がはめ込まれていて、珍しいと思いました。
歌碑のデザインはどのように決まっていくんでしょうね。
「令和」の元となった歌の万葉歌碑、建設されるとすればどんなのでしょうか。
とても楽しみです。
歌碑の側には、分かりやすく解説した説明板が用意されています。
古の万葉浪漫を感じながら、
太宰府の散策されてはいかがでしょうか?
それでは次回また、モッチャリーナ(๑˃̵ᴗ˂̵)!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
モカリーナより♡